《New Herbs Part One(若菜・上)》 The crown prince was represented by his lady of honor, who watched the Akashi lady carefully and was most favorably impressed. She had known in a general way of the lady's circumstances and had thought how unfortunate it would be for the crown princess to be burdened with an unacceptable mother. Everything convinced her that the lady had been meant for high honors. Natal ceremonies should be familiar enough that I need not go into the details.
英語訳文(英文)の出典:『The Tale of Genji』 Edward George Seidensticker(エドワード・ジョージ・サイデンステッカー)コロンビア大学教授(2007年没)
自筆「源氏物語」の「若菜(わかな)上」の巻は、禁裏(京都御所)において書かれたものです。四部録抄 (黒色の表紙) 中野市右衛門新刊。
自筆「源氏物語」の筆者である「大炊御門宗氏(おおいのみかどむねうじ)」は、室町時代の第103代天皇である後土御門天皇(ごつちみかどてんのう)の曽祖父です。文政武鑑 新板改正 全4冊 須原屋茂兵衛版。
したがって、出品した自筆「源氏物語」は、天皇の曽祖父の貴重な自筆です。教王護国寺蔵伝真言院 両界曼荼羅 全2函 石元泰博。大炊御門宗氏の長男・信宗の娘が大炊御門信子(のぶこ)であり、信子は後花園天皇の寵愛を受け准后として御所に居住し、皇子を生み後に第103代後土御門天皇として即位し、信子は生母・皇太后となる。玉はばき 第1号。現在の今上天皇と系譜がつながっている。鎔造化育論 全3冊 佐藤信淵。
関白・近衛基熙(このえ もとひろ)は、後水尾院(第108代後水尾天皇)の皇女・常子内親王と結婚。歌集 改選 赤光 斎藤茂吉。二人の皇女・熙子(ひろこ)は、甲府藩主・徳川綱豊と結婚。環斎記聞 鎌田環斎。綱豊は、のち第六代将軍・徳川家宣となり、熙子(ひろこ)は将軍家宣の正室となった。KEITOJOH 城景都。近衛基熙は、千利休の孫・千宗旦との茶会の交流(下記に掲示)で知られると同時に、第111代・後西院天皇や後水尾天皇を主賓に迎え茶会を開催。瀧井孝作句懐紙 颱風を… 瀧井孝作 署名捺印有り。茶会の際、基熙が所蔵する藤原定家・自筆の「定家色紙」を持参した記録がある。一読一驚 妖怪府 加藤鉄太郎抄訳。基熙は、他にも朝廷・幕府の間で茶会を何度も開催した記録が残っている。山口誓子色紙 遷宮 山口誓子。(資料の記録は下記に掲示)
出品した「源氏物語」は、南北朝時代から室町時代前期の公卿であった「大炊御門宗氏(おおいのみかど むねうじ)」の自筆です。改正御江戸図。
自筆「源氏物語」の書の特徴から高松宮系統と称されるものです。新調韻文 青年唱歌集 全2冊 山田美妙 米僊・省亭木版口絵。「源氏物語」には、応永五年(1398)~応永十三年(1406)までの複数の年号の記載があることから、少なくとも応永五年から8年間にわたり書かれていることがわかる。大増補 法華経御鬮霊感籖 上中下三冊。このため後醍醐天皇の宸翰(しんかん・天皇自筆)にかなり近い年代に書かれていることがわかる。六代目菊五郎伝 改訂版 浜村米蔵編。また、各巻ごとの書かれた年については不明。土地 武者小路実篤 岸田劉生装幀。従って、応永五年とは、書き始めの年である。ギヨツツ ゲーテ著 森林太郎訳。また、落款から、後年、近衛基熙(1648~1722)の所蔵となり、時代が下って、松平不昧公の手にわたり、正室・方子の所蔵となったものである。人間を彫る 関野版画五十年の集大成 関野凖一郎。近衛家で永く保存されておりましたので、保存状態は極めて良好です。幼年 詩集 丸山薫。
大炊御門家は、平安時代末期摂政関白藤原師実の子経実・治暦4年(1068)~天承元年(1131)を祖として創立された。木口木版蔵書票集 博物図鑑 限50部 大内香峰。大炊御門北に邸宅があったため「大炊御門」を称する。大報父母恩重経鈔 亮典書。初代、経実の子経宗は平治の乱で平清盛方の勝利に貢献。紅 田村とし子(俊子)。また、二条天皇の外戚として勢威をふるい、左大臣に昇った。雪に書く 表現叢書 10 佐藤惣之助。出品した「源氏物語」の筆者・大炊御門宗氏(おおいのみかど むねうじ)は、大炊御門家13代の当主で南北朝時代から室町時代前期の公卿。五味川純平草稿 歴史上の事実に対する困惑 五味川純平。応永5年(1398年)に従三位となり公卿に列する。九成宮醴泉銘 全8帖 加藤梅香肉筆臨書帖。備前権守、参議、権中納言、権大納言などを歴任し、応永27年(1420年)に内大臣に昇任した。美濃城記。
旧・所蔵者の近衛基煕は、「源氏物語」に造詣が深く、「源氏物語」の注釈書『一簣抄』(いっきしょう)を著(あらわ)しております。@1924年 張廉卿墨跡 唐本漢籍 検:碑帖 本拓本 墨拓 碑拓 碑刻石 法帖 魏碑 珂羅版 支那 書道 善本 篆刻 瓦当 印譜 王羲之 玻璃版 法書 石鼓。炊御門宗氏・自筆「源氏物語」は、近衛基熙が研究のために収集し、のちに出雲松平家に伝わり、松平治郷の正室・方子が鑑賞していたものです。西国紀聞・第六号/細島晴三/明治10年/西南戦争/和装本/賊将西郷隆盛より賊将谷干城へ書を贈れり依て士官囲を脱し南の関本営に持参せりと。近衛基熙が所蔵する自筆・「源氏物語」の中で、最も美しく繊細な筆致で記された平安時代の文字に最も近いとされております。富田常雄草稿 弁慶 611から613回 都の風 富田常雄。数ある自筆「源氏物語」の中で、第一級品と称される貴重な自筆です。絵図 (城郭図) 香川県 讃岐國 丸亀城 (レターパックライト発送)。
出品した「源氏物語」は「若菜(わかな)上」の内容の要旨
『源氏物語』五十四帖の巻名のひとつ。塚本邦雄歌幅 雲雀童子の歌 塚本邦雄。若菜の巻名は、「小松原末のよはひに引かれてや野辺の若菜も年をつむべき」に因む。さようならCP 原一男構成。源氏の君の兄・朱雀院(前朱雀天皇)は六条院の行幸直後から体調を崩し出家しようとするが、後見人の居ない愛娘・女三宮の将来が心配で躊躇している。寛政・嘉永 水場の定 2枚で。婿選びに思い悩んだ末、朱雀院は源氏の君に女三の宮を託すことを決心、源氏も承諾した。与謝野寛短歌全集 特定本 別に遺稿歌集付き 与謝野寛。年が明けて二十三日、源氏の四十の賀が盛大に行われる。Glp_362611 茶人大系譜 完 阿州棲霞陳人.著。二月に女三宮が六条院に降嫁した。軍事資料/戦時/1940年 検索:武器/日中戦争/日支事変/満洲帝国/日本軍/発砲/軍服/戦略/戦術/兵法/陸軍/上海戦役/支那/刺刀/槍械/兵士訓練。翌年三月には明石の女御(源氏の娘)が東宮(皇太子・後の帝)の男御子を出産。猫の微笑 薄田泣菫。それからしばらくして、突然冷泉帝が東宮(後の帝)に譲位した。仏学始祖 村上英俊 全3冊 瀧田貞治。一方、かねて女三宮の降嫁を切望していた柏木(内大臣の息子)は、その後も未練を残していた。日本名探偵文庫21 大暗室 江戸川乱歩。三月末、六条院の蹴鞠(けまり)の催しに訪れた柏木は、飛び出してきた唐猫の仕業で上がった御簾の奥にいる女三宮の姿を垣間見てしまう。豹の眼 探偵冒険 高垣眸。それ以降、柏木はますます女三宮への思いを募らせていく。岡本一平書簡 岡本一平。源氏の君、39歳から41歳までを描いている。食人島の恐怖 探偵冒険小説 南洋一郎。
自筆上部の「我君不遊有深意(わが君の遊ばざるは深意あり)」の漢詩の落款
漢詩は「白氏文集」の中の有名一節です。海豹と雲 北原白秋。押捺の詳細な理由は下記説明欄に記載
(自筆表面の凹凸はストロボの反射によるものです。武家必覧 殿居嚢 全2帖(武家故実) 訂書堂蔵版。)
大炊御門宗氏・自筆「源氏物語」近衛基熙・旧蔵の来歴については下記「説明欄」に記載
《「源氏物語」若菜(わかな)上の巻》
「若菜・上」の巻は英文で「New Herbs Part One」と表記されます。メガメ JAPON F・REGAMEY/メガメ。
《原本上部に「我君不遊有深意(わが君の遊ばざるは深意あり)」という、中国の皇帝が行幸しないのは莫大な行幸に費やすことを控える徳を讃えた「白氏文集」の漢詩文の落款が押捺されており、この漢詩文は「若菜・上」の原文中から引用されている。歌集 風雪 愛蔵本 吉井勇。》
(自筆表面の凹凸はストロボの反射によるものです。木芽説 (茶道) 前田夏蔭。)
「自筆原本」
自筆下の二つの印は、出雲・松江藩主・松平治郷の正室・方子・と娘の幾千姫(玉映)の落款。花押拾遺 全5冊 横山寛。
自筆上部のタテ長の印は、「我君不遊有深意(わが君の遊ばざるは深意あり)」は、
中国の皇帝が行幸しないのは莫大な行幸に費やすことを控える徳を讃えた漢詩文の落款。窪田空穂歌幅 東山寺々に… 窪田空穂。
反対側の印は仙台藩医・木村寿禎の落款
《原本中の凹凸はストロボの影響によるものです。弓道伝書/弓術伝書/日置流・小笠原流・吉田流/和装本/昭和11年。》
自筆下部の印は出雲・松江藩主・松平治郷の正室「方子(よりこ)と娘・幾千姫(玉映)の落款(印譜)
自筆が「古切」とされたのは江戸時代。伊勢軍記 神戸外記著。古切に至る詳細な経緯は下記「希少価値欄」に記載
(1)・自筆の「原文の読み下し文」は次の通りです。武功雑記・5冊/肥前平戸藩4代藩主松浦鎮信が記した戦話/諸士諸将の武勲を雑記したもので関ヶ原の戦や大坂の陣などについて詳しい/明治36年。
《「源氏物語」若菜・上(わかな)の巻》
《原本上部に「我君不遊有深意(わが君の遊ばざるは深意あり)」という若菜・上の原文中に引用されている漢詩の落款が押捺されている。改訂 新刻大坂詳細全図 伊藤頴男編。》
御ゆとの(湯殿)のあつか(扱)ひなとをつか(仕)うまつり給(たま)ふ。坪内逍遥書幅 A 坪内逍遥。
春宮の宣旨なる典侍そ仕うまつる。長谷川かな女色紙 女正月 長谷川かな女。
御迎湯に、おりたちたまへるもいとあはれに、
うちうちのこともほの知りたるに、
「すこしかたほならは、いとほしからましを、あさましく気高く、
けに、かゝる契りことにものしたまひける人かな」
と見きこゆ。早春詩抄 島崎藤村/畦地梅太郎木活字工作。このほとの儀式なとも、まねひたてむに、いとさらなりや。戯場楽屋図会 全4冊 松好斎半兵衛作。
[10-6 帝の七夜の産養]
六日といふに、例の御殿に渡りたまひぬ。武門要鑑抄 全3冊他 上杉謙信伝。
七日の夜、内裏よりも御産養のことあり。和泉名所図会 全4冊 秋里籬島撰。
朱雀院の、かく世を捨ておはします御代はりにや、
蔵人所・・・・《よ里(り)、頭弁、宣旨うけたまはりて》
(文責・出品者)
「原文の読み下し文」は、読みやすいように「通行訳」としております。改正 海外諸島図説 前集 斎藤寛他 柳川重信画。
《「源氏物語」若菜(わかな)・上の巻》
《新年・明石の女御(皇太子の正室)の出産が迫り、安産祈願が行われる》
《明石女御(春宮・皇太子の正室)男子を安産にてご出産》
《対の上(紫の上)は、扱いにくそうでいらっしゃる若宮の小さなお体を、いつも引き取っては
若宮をお抱きになっているので、実の祖母君(明石の女御の祖母)はいっさい
こちらにお任せ申して、》・・・・・お湯殿のお世話などをご奉仕なさる。大谷句仏短冊 水底に… 大谷句仏。
東宮(皇太子)の宣旨である典侍(ないしのすけ)が産湯の御役をおつとめする。硝石製煉法 全 桜寧居士。
御方(明石の君)がご自分からすすんでそのお相手役をなさっているのを見ると、
典侍(ないしのすけ)はまことに胸を打たれる思いがして、内々の事情を多少は知っているので、
(典侍)「もしもこの御方(明石の君)にもう少しいたらぬところがありもしたら
女御(明石の女御)の御ためにはおいたわしいことであったろうに。勾田台嶺画額 風景画 勾田台嶺 まがただいれい。
この御方(明石の君)は、驚くばかり気品がおありで、なるほど、
このような格別のご運がおありのお方だったのだ」
とお見受けしている。尾張藩役名規式 (家中役付帳)。
そのころの儀式などをいちいちそのまま伝え語るのも、豪華絢爛でまったく
いまさらめいているというものではある。はつぞら (俳諧) 佳雄編。
六日目に、女御(明石の女御)はご自分の御殿にお移りになった。尾上柴舟短冊 裏山は… 尾上柴舟(八郎)。
七日の夜、帝(冷泉天皇)からも御産養を賜る。伊藤圭介二行漢詩幅 先世伝家… 伊藤圭介。朱雀院(前朱雀天皇)がこのように俗世をお捨てあそばしている御代りということで
あろうか、蔵人所(くらうどどころ)・・・・《から頭弁(とうのべん)が宣旨を承って、
例のないくらい盛大にご奉仕した。信濃国更級郡大岡村などへ西沢準平年貢皆済目録 現長野市大岡地区。》
現代語訳の出典・「源氏物語」小学館刊・阿部秋生・東大名誉教授(1999年没)
備考・出品した自筆は、大炊御門宗氏・自筆で近衛基熙の旧・所蔵になるものです。鈴鹿野風呂句幅 吾亦紅 鈴鹿野風呂。
禁裏(京都御所)で書かれたものです。新都市雑曲集 深紅の人 佐藤惣之助詩集 佐藤惣之助。
《New Herbs Part One(若菜・上)》
The crown prince was represented by his lady of honor,
who watched the Akashi lady carefully and was most favorably impressed.
She had known in a general way of the lady's circumstances
and had thought how unfortunate it would be for the crown princess
to be burdened with an unacceptable mother.
Everything convinced her that the lady had been meant for high honors.
Natal ceremonies should be familiar enough that I need not go into the details.
英語訳文(英文)の出典:『The Tale of Genji』
Edward George Seidensticker(エドワード・ジョージ・サイデンステッカー)コロンビア大学教授(2007年没)
《若菜・上》
真的外婆明石夫人一切都紫夫人做主,自己任沐之事。上村松篁 花香鳥鳴 上村松篁。
以前宣布立皇太子的旨的女典侍,
是司理沐之事的。観経隠彰義 全3冊 信暁。看明石夫人自来助, 得很不起。随筆 茶烟亭燈逸伝 岩佐東一郎。
明石夫人出身的内情,典侍曾略知。村上鬼城短冊 霜月の日ざし 村上鬼城。明石夫人的人品如果略有缺陷,
女御不免失体面。欧州新話 谷間之鶯 セルバント/齋藤良恭。然而明石夫人气度十分高雅,
因此典侍得真是命特的人。尾張国輿地全図 高柴三雄誌。此次祝之盛况,一如向例,不述。詩集 思弁の苑 山之口獏 佐藤春夫・金子光晴序文。
后六日,明石女御从西北院回南院。@1932年 満洲国 写真帖 初版 検索: 支那 上海事変 中華民国 軍閥 蒋介石 閻錫山 馮玉祥 国民党 生写真 古建築 総督府 汪精衛 地図 関東軍。第七日之夜,冷泉帝也。経世指針 鉄烈奇談 フェネロン/伊澤信三郎訳。
朱雀院已出家,不能来探,
中国訳文の出典:『源氏物(Yunsh wy)』
豊子愷(ほうしがい)中国最初の「源氏物語」翻訳者(文化大革命で没)
中央の写真(右から2番目)の写真が「源氏物語」若菜・上の巻の末尾(原本番号108-B)の押印。詩文集 誕生日 林修平(林富士馬)。
左下の四角の大きな印は仙台・伊達家の家紋の印(竹に雀)
家紋の上2つの印は仙台藩主第五代藩主・伊達吉村の正室(冬姫)の印。雨夜のともし火(燈火) 湯浅元禎。冬姫は内大臣・通誠の養女。井上士朗画 三輪月底句画賛扇面幅 井上士朗 三輪月底。
冬姫は通称。尾崎喜八草稿 かびれ俳句 冬木原 尾崎喜八。正式な名は伊達貞子。蘿隠集 漢詩文 全2冊 横井暮水也有著 大口金三郎編。2つとも貞子の印。明治11年 東京府下町村改正区郡分一覧 林吉蔵編刊。左端の写真は「若菜・上の巻」末尾の拡大写真。日本唐土二千年袖鑑 拾遺絵入天地人 3冊 歌国 鐘成他 半山画。
左上端の細長い落款は、「我君不遊有深意(わが君の遊ばざるは深意あり)」の漢詩文の印。勢遊志 伊藤長胤。漢詩文の右の2つの印のうち、下は出雲藩主・松平治郷(不昧公)の正室・方子(よりこ)の印。まごころ 石坂洋次郎。方子の上の印は方子の娘・幾千姫(玉映)の印。尾崎久弥草稿 根本仕立の艶本 尾崎久弥。右上の印は仙台藩医・木村寿禎の落款。小寺稲泉画幅 水無月 小寺稲泉。右端の写真上は仙台藩主(伊達家)正室一覧表の表紙。元亨釈書 全15冊 虎関師錬。表紙の下は一覧の拡大写真(仙台市立博物館・刊行)
(出品した自筆の「断層画像写真」(若菜・上の巻)MRI 34―76B
自筆下二つの印は、出雲・松江藩主・松平治郷の正室・方子(よりこ)と娘・幾千姫(玉映)の落款
「近衛基熙の肖像」「後西院天皇主賓の茶会の記録」
1番上の写真は、第103代後土御門天皇と曽祖父・大炊御門宗氏の系図(公家事典303頁)
2番目の写真は「額縁裏面」に表記されるラベル。和洋建具雛形図解 川津書店 昭和二十八年(U232)。2番目の写真は近衛基熙の肖像(陽明文庫・所蔵)
3番目の写真は、第107代後陽成天皇の曾孫・近衛基熙の天皇家・近衛家略系図
【天皇家・近衛家略系図の出典(淡交テキスト「茶会記」に親しむ・7)平成29年7月淡交社・刊行】
4番目の写真は、「日本史の茶道」千利休の孫・宗旦と近衛基熙の茶の湯の交流」120頁(淡交社刊)
5番目の写真は、近衛基熙が、御所で第111代・後西院天皇を主賓に茶会を開催した記録「公家茶道の研究」55頁(谷端昭夫・著)
「源氏物語」「若菜・上の巻」絵図、茶室関係資料
下記写真1番目は、「源氏物語屏風(若菜・上)」東京国立博物館所蔵
猫が開けた御簾(みす)の隙間から、柏木が女三宮を目撃する「若菜・上」の有名な場面
上から2番目の写真は、「淡交」別冊(愛蔵版・№71 『源氏物語』特集)
上から3番目左右の写真は、茶会における大炊御門宗氏・自筆「源氏物語」を茶道具として用いた茶室の事例
「我君不遊有深意(わが君の遊ばざるは深意あり)」という漢詩文の落款が押捺されている。蝗の大旅行 佐藤春夫。この漢詩は「白氏文集」の漢詩に由来するものです。土方泰山伯伊東元帥画賛幅 兵可用酒可呑 土方久元・伊東祐亨。
つまり、原文の内容に関する漢詩の落款を押捺しているのは、茶会における床の間の「掛け軸」(かけじく)を拝見(はいけん)の際に、茶会を主催する亭主が、客に「最高のごちそう」を振る舞うために披露したものです。大野林火色紙 郭公の 大野林火。茶会の際に落款に記された由来を知った客が広くそのことを社会に広めたために結果的に、多くの茶会に開催される「最高のごちそう」として原文に関係する漢詩の落款を付したものです。女庭訓 黒岩涙香小史訳述 永洗口絵。「落款」の漢詩の由来を待合において説明する際に、長い時間を要し、茶会における貴重な時間であったと推定されております。伊藤観魚書幅 金剛摩尼華 伊藤観魚(八田道人書き)。
出品している書の「断層(MRI)写真」の原板は、レントゲン写真と同じ新聞の半分ほどの大きさのフィルムです。世界名作探偵 20 透明人間 ウエルズ 海野十三。肉眼では見ることのできない和紙の繊維の一本一本のミクロの世界を見ることができます。瀧井孝作句幅 朝顔の句 瀧井孝作。日本国内では医療用以外には見ることのできない書の「断層(MRI)写真」です。森村宜稲画幅 鶉 森村宜稲。
古切の書は、一旦表装を剥離し分析と鑑定検査のために「断層(MRI)写真撮影」をしております。虜愁記 直木賞 千葉治平。撮影後、展示のために再表装をしております。コドモトナリグミ (児童書 絵本 漫画本) 坪田譲治作 武井武雄画。掛軸や屏風にすることが可能なように、「Removable Paste(再剥離用糊)」を使用しているため、自筆の書に影響をあたえずに、容易に「剥離」することができるような特殊な表装となっております。柳原白蓮歌 名取春仙画幅 おもひきや… 白蓮画賛。
国内における鑑定人は、自筆の筆者を識別するために、個々の文字ごとに字画線の交叉する位置や角度や位置など、組み合わせられた字画線間に見られる関係性によって、個人癖の特徴を見出して識別する方法、また個々の文字における、画線の長辺、湾曲度、直線性や断続の状態、点画の形態などに見られる筆跡の特徴によって識別する方法、そして、書の勢い、速さ、力加減、滑らかさ、などの筆勢によって識別する方法が一般的な手法です。白描 十二支及び十二神将図像。
一方、欧米では一般的には、「筆者識別(Handwriting Analysis)」と呼ばれる文字解析をコンピューターの数値によって解析しております。近江国細見図 山下重政。数値解析は、文字の筆順に従いX、Y座標を読み、そのX、Y座標をコンピューターへ入力後、コンピューターによって多変量解析を行うものです。水原秋桜子句幅 花の雨 水原秋桜子。解析の基準となるのが「ドーバート基準」で、アメリカでは日本国内の画像データを自動的に収集、自筆の分析に際し、数値データをコンピューターで自動的に解析し「極似」した画像データによって筆者を識別する研究が進んでおります。朝の影 広津和郎。
2・大炊御門宗氏(おおいのみかど むねうじ)の自筆の特定について
自筆の筆者は、書体、書風から京都の公卿によって書かれたものであるはわかっていたが、昭和38年以来、筆者名は特定されていなかった。地熱 渾大防小平。その後、「筆者識別(Handwriting Analysis)」と呼ばれる文字解析と並行し、奥書の「宗」の字の下の文字が判読できずにいた。0406か6■和本■詩経名物辨解【享保16年/7巻3冊揃/虫損/シミ】京師書林【ゆ60】。それが、技術の進歩により「宗」の下の文字が「氏」と判読された結果、南北朝時代から室町時代前期の公卿であった「大炊御門宗氏(おおいのみかど むねうじ)」であることが判明した。第6回追悼会 憂国忌 ポスター2種 2枚他 憂国忌実行委員会。
「源氏物語」には、応永五年(1398)~応永十三年(1406)までの複数の年号の記載があることから、大炊御門宗氏が23歳から31歳までの間に書かれたものと推定されている。太田水穂色紙・井上康文色紙貼り合わせ幅 太田水穂 井上康文。宗氏は、正二位・内大臣まで昇進したのち、応永28年(1421)47歳で没している。三島由紀夫自選集 限定版 署名入り 三島由紀夫。
3・自筆「源氏物語」の旧・所蔵者の特定の経緯について
近衛基熙の旧・所蔵の特定は、「花押」の写真照合技術によるものです。大鎧着初式 市岡太次郎。アメリカのコンピューターを用い、「筆者識別(Handwriting Analysis)」と呼ばれる文字解析を、花押の照合に応用し、指紋の照合方法と同じ手法により99.9パーセントの確率で特定に至ったものです。女人散らし書き A。
4・近衛基熙(このえもとひろ)について
近衛基熙は、慶安元年(1648年)3月6日、近衛尚嗣(関白・左大臣)の長男として誕生。@1916年 擁護共和 紀章 雲南 都督府 検索: 支那 中華民国 北洋 軍政府 軍閥 唐継尭 蒋介石 閻錫山 馮玉祥 五色旗 孫文 国民党 生写真 督軍。母は後水尾天皇皇女女二宮。越後国大絵図 (仮題) 絵師版元など不明。実母は近衛家女房(瑤林院)。赤復得楽帖 ◆貴重 /古書画。幼名は多治丸。膳城烈士遺稿・膳城烈士伝 計2点 永元原蔵編。父、尚嗣が早世し、尚嗣と正室女二宮の間には男子がなかったため、後水尾上皇の命により、近衛家の外にあった基熙が迎えられて上皇の保護下で育てられた。紡錘 山中智恵子。承応3年(1654年)12月に元服して正五位下に叙せられ、左近衛権少将となる。夢を描く 尾崎久弥(尾崎楓水)。以後、摂関家の当主として累進し、翌年明暦元年(1655年)従三位に上り公卿に列せられる。石井河内守利寛より渡辺半十郎宛礼状。明暦2年(1656年)に権中納言、万治元年(1658年)に権大納言となり、寛文4年(1664年)11月23日には後水尾上皇の皇女常子内親王を正室に賜った。植松有経歌幅 月下薄 植松有経。寛文5年(1665年)6月、18歳で内大臣に任じられ、寛文11年(1671年)には右大臣、さらに延宝5年(1677年)に左大臣へ進み、長い時を経て元禄3年(1690年)1月に関白に昇進した。高浜虚子句幅 秋の雲 高浜虚子。近衛基熙は、寛文5年(1665年)から晩年まで『基熈公記』で知られる日記を書いている
ツイッター「源氏物語の世界」も合わせてご覧ください。半田良平短冊 磐梯山 半田良平。
源氏物 Yunsh wy 典的 Jngdin de不昧公 公卿 肉筆 保障 保証 真筆 真筆 親筆 古筆 本物保証 本物保障 室町 掛軸 掛け軸 自筆 天皇 茶道具 宗鑑 良寛 伝来 歌仙 極め 極札 極め札 鑑定